看護師父さんの仕事と勉強の記録

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zoom RSS 看護現場学への招待 陣田泰子

<<   作成日時 : 2015/10/08 23:54   >>

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だいぶ前に買って読んでいなかった本。

経験したことを思い返して言葉にして自分なりにまとめてみたり、
自分の経験したことを学問的に深めてみようとしたりすることは、
大切だなと思った。


以下抜粋。

昨今の動きの激しい現場は、5年前の経験に基づいて想像していては的外れになる。おそらく基礎教育の年月をいくら長くしたところでとうてい追いつかない。7年間の看護部長としての感想を一言でいうように求められたら、きっと私はこういう。「仕事に全力を傾けてやってきた。それでも、やってもやっても追いつかなかった。」医療・看護現場にいる者は、いやでもその場、まさに動いて止まらない、やってもやっても追いつかない現場で看護をしているのである。p4

特に真面目な人は、このように感じやすいのだと思う。

やってもやっても追いつかないから、
どんどん遅れていって、
そのうち取り残されてしまうのだろうか?

追いつくように頑張っていると、
そのうち自分も成長してきて、
そんなに遅れないようになれるような気もする。

けれど、
自分の成長を越えて現場の動きはもっと激しくなっていて、
やっぱり置いて行かれているということか。

まあ、世の中にはっきりとしたゴールなんてないだろうから、
自分でゴールを決めて走るしかないのだろう。



「患者の自己決定」という言葉、この概念に基づいて患者に決定を迫っていくとき、それは演繹的アプローチとなる。患者が下す決断が一番重要、という考えかたが正しいと信じて実践していくとき、揺れ動く人間の気持ちはおいていかれる。p77

あなたが決めたことでしょ!
って、後から言われると辛いこともあるだろう。

誰しもそんなに強くないから、考えや気持ちは揺れ動く。

「決定」が変わってしまうと相手は困るのだけど、
「決定」は覆せないとしてしまうと当人を追い込むことになるわけだ。

しかし、
自分で決めたことだから諦めもつくということもある。

今のところこういう結論だけど、生きている限りは何が起こるかわからないし、考え方も変わるかも知れないし、
というようなことをお互いに理解した上で、
「決定」というものを考えたらいいのだろうと思う。

「決定」というのは、
その人が生き続けている限りは「仮」のものなのだと。



 異論があることを覚悟して言えば、Kさんとの経験を概念化した今の私の結論は「ALS患者に対して、呼吸器をつけるかつけないかの自己決定を患者に迫るのは間違っている。」と考える。
 人工呼吸器は、病気によって呼吸ができない人でも生きていくことを可能にしたいと願った人間がつくった器械である。その器械は、病気であっても地上に生を受けたこの大切な人間がその恩恵を受けることができるために発見・発明されたはずである。
 しかし、器械が幸せにしてくれるわけではない。それを使う人がどのような意図で、どのような気持ちをもってその時間をともにするのか、人工呼吸器が「苦しみの器械から、恩恵の器械」へ、いつどのように変化するのか、私はもっと知りたい。その解答は本や教科書に書いてあるのではなく、目の前の、この現場にある。p78


答えがないことに、答えを出しなさいと強要されて出した答えが、絶対になるとしたら、
その答えは間違っているのだろう。

ただ、
どうしたらよいのかわかりません、
と、言われても困るわけだけど。

世の中、答えのないことばっかりで、
その中でもある程度の答えを出したり、難しいところは誤魔化したりしながら、
なんとかして生きているのだと思う。

そんな中で、
人工呼吸器を付けるかつけないか決めなさい、
というのは、相当酷な選択だということは理解していないといけないはずだけど、
医療現場ではしばしばあることなので、「酷」であることを忘れてしまいそうになる。

そしてこのことは、
ALSでないにしても、いろいろな病気の最後の段階で突きつけられる問題だったりするので、
多くの人が日頃から考えておくべきことでもあると思う。



そこに病の人がいる限り、看護は「患者が今を最善に生きる」ことへと向かう。p79

まあ、病人でなくても、
今を最善に生きることが、
生きることなんだと思います。



エキスパートナースの要件である直感力とは、どうしたら身につくのか。確実な方法は〈body with mind〉を実感する体験をもつことである。ただ、量的な体験だけを重ねても見えてはこない。それはこれまで述べたような概念化へのアプローチによって浮かび上がるものなのである。
 事例の現象レベルからその意味を見出し、構造、本質へとたどるプロセスが必要なのである。カンファレンス、事例検討などの方法により〈body with mind〉のプロセスを明らかにしていくこと、それは体験・出来事を言語へ変換し、抽象化していくプロセスである。実践、真理の探究、再実践へと続くらせんの学びは、時間経過のなかで、体験が経験へと進化していく道のりなのである。p83


エキスパートナースは、ベナーがいうように行動はしっかりできているのである。しかし、たとえできている行動でも振り返りをしなければいつしか記憶は薄れ、事実も消えていく。概念化とは、実践した看護(現象)の共通性を探り、それらに名前をつけ、意味づけることなのである。p104

こういうことを、日々目指したらいいのでしょうけど、
忙しい一日が終わってホッとして家に帰るだけの日々が多いです。

まあ、それだけだと、
日々、消えていっている感じがしますので、
時々、本を読んだりしているわけです。



読者の反論を覚悟で言えば、私は「看護は科学である」といういことを捨ててもよいのではないかと思っている。p88

看護は科学的な部分もあるし、もっと科学的な考え方を取り入れたほうがよい部分もあるだろうし、
ということで、看護師として気合を入れて襟を正すというような意味で、
看護は科学であると言ってみても言いような気もする。

もしくは、
もう少し科学的になれるように頑張ります、
ということかな。



 カンファレンスで話し合われたことの中心は、「私たち看護師がよかれと思って実践している看護が、家族にとっては必ずしもよいことなのではない」「もっと伝える努力をしなければ、相手(患者・家族)には伝わらないものなのだ」ということであった。
 つまり、黙って実践するだけでは何も伝わらない、言葉にして意識的に家族に伝えることが重要であり、なおかつ理解できたかどうか反応をしっかりとらえていくことが必要であるとみんなで再認識した。p99


言葉にしないと伝わらないし、
言葉にしても伝わらないことも多い。

それでも、
コミュニケーションを続けることしか、
分かり合うための手段はないのですね。

同じことを長く続けているほど、自分のやっていることが当たり前になってしまって、
相手がわかってくれて当然、というような気になってしまう場合もあると思うけど、
逆に、ちゃんと考えている人は、
長く続けるほどに、どのようなことが伝わりにくいかを知っていて、
それを伝えるための工夫も考え出しているものだと思う。



「鶴見和子の遺言」p125

本の中で紹介されていたこのDVD、
見てみたいなと思ったけど、
かなり高いです。





看護者には長い時間の醸成のなかで、患者自身も気づかない微小な変化の兆しをキャッチし、患者自身がそれに気づくようにはたらきかける力が求められる。そのためには、時間と看護者の長期にわたる経過を追おうとする継続した意欲や関心がなくてはならない。それは変化へのまなざしであり、変化が生じるだろうという期待と変化を起こすことができるという自己への信頼であり、それがなくてはその変化を見失ってしまうものなのである。p142

文章の中で「看護師」ではなく、「看護者」と書かれているのは、
このことが「看護師」にだけ当てはまる特性というわけでもないからでしょう。

私にしてみると、
親としての子供に対する関わりとして、
この文章はよくわかる気がしました。

「看護者」を「親」、「患者自身」を「子供自身」、「変化」を「成長」と言い換えると、
子供の成長を後押しするために、親の取るべき行動そのものだなと思います。

相手の微小な変化の兆しをキャッチする、
看護師として働くときにも、
このことを意識してみようと思いました。


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