脳神経外科看護師のブログ

アクセスカウンタ

zoom RSS 看護師の臨床の『知』―看護職生涯発達学の視点から 佐藤 紀子 まとめと感想その2

<<   作成日時 : 2015/11/24 08:14   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0


まとめと感想その1の続き。



看護師は臨床で行為(実践)しながらクライアントを理解していること、看護を行った後にも何かを感じ考え意味づけていること、そしてそこでの感情や思考はその場の状況に依存していることが確認できた。また、クライアントの死を経験した看護師は、そこで死に至るまでの自分の関わりを深く洞察していた。人生の終焉の場面に関わることは、看護師に深い洞察と厳しい自己反省を促すことにつながっていた。p187

ショーンは、現代の専門家は従来までの技術的合理性にもとづく技術的熟達者ではなく、行為のなかに省察にもとづく反省的実践家であると指摘している。p187

何が正しいのかということがはっきりとわからない中で仕事をしているわけだから、
日々考えたり反省したりすることが多くなるのは仕方がないことだと思う。

患者さんが元気になれば、それは正しかったのだと確信らしきものも持てるかもしれないけど、
亡くなってしまえば、正しかったのかどうかなんて確かめようもないから、
ずっとモヤモヤしたまま。

モヤモヤしたまま働いているのがつらくなってくるときもあるので、
割り切って考えることも必要になるのだろうけど、
すべて割り切ってしまうのも正しいことのようには思えない。

看護師として働き続けるには、
モヤモヤしたものを引きずったままでいる覚悟みたいなものが、
必要かもしれないな。



初心者から一人前までは、時間が経過する中で多くの看護師が身につけることができる技能であるが、一人前から熟達者への変化には質的な飛躍が必要であり、経験の長さだけで熟達した看護実践が可能になるのではないp189

熟達者(中堅)になり安定したケアを提供できるようになる過程において、状況を理論知と結びつけるような支援が必要であるp193

看護師の成長には、初心者→新人→一人前→熟達者→エキスパートという段階があるということで、
熟達者になるには、状況を理論値と結びつけるような支援が必要、といこと。

熟達者からエキスパートになるには何が必要なのかよくわからない。



「一人前」と「熟達者」の違い。

ここでの一人前と熟達者の相違は、ドレフェスのモデルによると、一人前は「状況に依存し、顕著な点に認識ができ、全体の状況を分析的に把握し、合理的に決定する」のに対し、熟達者は「状況に依存し、顕著な点の認識ができ、全体の状況の把握は全体的であり、決定の仕方は合理的である」とされている。つまり、決定的な相違は「状況の把握の仕方」の相違であり、一人前は「分析的」であり、熟達者は「全体的」という点である。p195

熟達者は状況を全体的に把握する、
というのはどういうことなのか?

普段看護師は、S(主観的情報)、O(客観的情報)、A(アセスメント)、P(計画)、というよに分けて記録を書いたりするけど、
そういうのをすっとばして、何をするべきかが一瞬でみえてくるような状態なのかなと思う。

熟達者は、アセスメントシートを利用したりして分析するのも必要なく、
もっと直感的に判断をしているということなんだろう。



「エキスパート」について。

ベナーによると、「エキスパートの実践家は、状況を把握して適切な行動と結びつけていく際に、もはや分析的な原則(ルール、ガイドライン、格率)には頼らない。エキスパートは、背後に豊富な経験があるので、かなりの範囲の実りのない二者択一的診断や決定について、不経済な検討をせずに、いまや状況を直感的に把握し、問題領域に正確にねらいを定める」という。p195

「エキスパート」は、「熟達者」の判断をさらに超える!!

病棟で、基準や手順を整備したり、アセスメントツールを導入したりするのは、
「初心者」、「新人」、「一人前」あたりの人を対象にしたものであって、
ほんとうに目指すべきところは、もっと高いところにあるのだなと思った。



森有正は、〈経験〉について以下のように述べている。「本当の経験というのは、絶えず、そこに新しい出来事が起こり、それを絶えず虚心坦懐に認めて、じぶんのなかにその成果が蓄積されていく。そこに〈経験〉というものがあるので、経験というのはあくまで未来に向かって開かれていく。つまり新しいものを絶えず受け入れえる用意ができていること」p200

起きていることは絶えず新しいいことで、それを絶えず受け入れること。

看護師として働いていると、
日々同じようなことが起きていて、同じような仕事の繰り返しのように思えてくることがあるけど、
それは、「未来に向かって閉じている」ということなんだろうな。

そのような気持ちで働いていたのでは、
自分の中に成果が蓄積さていくこともないと。



このよう生死に関わる倫理的な問題に直面する看護師が、何の迷いもなく塩酸モルヒネの使用が最善だと判断することや痛みも伴わずクライアントが望まなかった処置をする場合は、また異なった問題を引き起こすであろう。痛み苦しんでいるその人を前にして、看護師も悩みながら判断するという実践がなければ、そこでの医療には倫理性がないと指摘されることになる。p204

悩むことで倫理性が発生するというわけではなく、
できるだけ誠実にやろうとすると、悩むことだらだなということだと思う。

そして、悩んでいれば許されるということもなく、
誰も許してはくれないけど、実践し続けなければならないというのが、
看護の厳しさだなと。



イリイチは「まことに、歴史上、人類の叡智は、《義務、愛、魅惑、日常の仕事、祈り、同情などが、尊厳を失わずに苦痛に耐えることの手段である》ことを教えている。また、かつて《痛みとは、常に自己自身を見いだし、それに対する自己の意識的反応によって絶えず形作られる、自己の身体に関する主観的現実の不可欠な部分あと考えられていた》のである。それに、痛みは病気や病人とははっきり区別できず、その一方だけ排除することはできない以上、医者が患者から、麻酔によって痛みに耐える必要性を取り除くことは、つまりは患者との関係を絶つことさえも意味している、と言えるのだ」という主張も重要であり、引きずりながらも考え続けることが必要な領域であると考えられる。p204

「医者が患者から、麻酔によって痛みに耐える必要性を取り除くことは、つまりは患者との関係を絶つことさえも意味している」
というところは、そうだろうか?とも、ちょっと思う。

痛みを訴えている人が痛みを訴えなくなれば、
痛みを訴えていた人との関係は絶たれたことになるということかな?

患者さんが痛みを訴えなくなれば、
看護師としての気持ちも楽になる部分があるのは確かだけど。

「絶つ」というよりも「変化する」というほうが近い気がする。



「エンゼルケア」という用語に置き換えられ日本の看護師にとって意味あるこの技術は、欧米では必ずしも看護師の仕事ではない。米国では患者の死亡が確認されると、看護師の仕事はそこで終了し、エンバーミング(embalming:遺体を消毒、保存処理を施し、また必要に応じて修復し、長期保存を可能にしようとする技法)を職業とする人がその後の処理を請け負うという。私の考えでは、デカルトの心身二元論がDNAレベルに組み込まれている欧米人にとっては、氏は生命の終焉であり、遺体は物体として捉えて当たり前なのだろう。一方、日本では、遺体には霊魂が宿っていると考えられており、看護師たちは末期の水を飲ませ、遺体に語りかけながら清拭を行っている。もし、日本の看護師がこの仕事を「看護」として捉えられないのであれば、万国共通の普遍的な「死の看取り方」が生まれるだろうが、そのようなことは今後も起こらないに違いない。p218

私も日本の看護師だけど、
「エンゼルケア」はご遺体になった当人への看護だとは思っていないな。

ご遺体になった人のことを考えたりしながら、
私自身と、残された家族への看護かなとは、
思っているかな。



自分に割り当てられた仕事について、量的にも質的にも責任をもって担っていると見受けられる臨床経験四〜五年目の看護師が、自分の力の限界を感じ悩みながら仕事をしているす姿である。彼女たちの抱える葛藤や疑問は、「告知されていない患者への関わり方や、その人への医師の対応への疑問」「おそらくどのような治療をしても効果がなく、過剰だと思われる治療に対する疑問」「自分が看護師としてそこにいることの意味の不明瞭さ」など、いくつかの象徴的なものが挙げられる。そして、このことは他職種との関連を抜きにすることのできない看護の役割、あるいは言葉を換えると「専門性」についての葛藤を含む根源的な問題を包含していると考えられる。p236

看護師四年〜五年目くらいで感じた悩みは、
その後も解決することなく続くものだと思うけど、
自分ができることに集中することによって、
しだいに、気持ちの上では楽になっていくと思う。

その後は、
ときどきその大きな問題を思い出して、
自分のその時の能力で、取り組んで行けば良いのだと思う。



高齢社会となった現在、医療に延命効果のみを求める人は減少し、死に至るまで価値ある生命(生活)を維持したいと考える人々が増加する傾向にある。それらの人々のニーズに応え、一人ひとりの意思決定を支え、尊厳ある人生を全うするための支援をすることこそが看護本来の重要な仕事であり、今後ますます求められる役割なのではないだろうか。p237

「人々のニーズに応え、一人ひとりの意思決定を支え、尊厳ある人生を全うするための支援をすることこそが看護本来の重要な仕事」

重いですね。



近年、看護界では多様な理論が開発されている。その理論はある意味では普遍性をめざした論理的なものではあるが、看護が行われる場やその場の文化や風土、状況が異なることからそのままの形で適応することはできない。また日本のように集団の合意が求められる文化においてはそこでの規範が理論に優先していることもあるだろう。しかし、誰かが理論を自己の内面に取り入れ、実践につながる知識として変換させ用いることができれば、その看護チームにはすくなからぬ変化が起こるであろう。言葉を換えていうならば、理論的知識を内面化し、実践に取り入れることができる人のいるチームは理論を生かすことができるチームとなりうるのである。p240

「熟達者」とか「エキスパート」とかは、
どうやって目指したらよいのかよくわからないので、

「理論的知識を内面化し、実践に取り入れることができる人のいるチームは理論を生かすことができるチームとなりうるのである」

というところを目指したら良いのだろうなと思った。




テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
看護師の臨床の『知』―看護職生涯発達学の視点から 佐藤 紀子 まとめと感想その2 脳神経外科看護師のブログ/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる